JRchanの日誌

2024年から札幌に移住したフクロウ🦉(夫)とタヌキ🦝(妻)の共同日誌

北海道 開拓の村

3月最後の土曜日に北海道開拓の村に行ってきました。開拓の村では明治から昭和初期にかけての北海道の建築物を移築復元・再現した大きな建物博物館となっています。

 

開拓使札幌本庁舎や札幌停車場のような大きな建物から、農家や開拓民が移住してすぐに建てた一時的な開拓小屋のような小さな建築までバラエティーに富んでいます。

 

その中でも今日は2つの建物を取り上げたいと思います。

 

1つ目は1924年の旧広瀬写真館の建物です。この写真ではわからないのですが、建物の奥では光が取り入れやすいように非対称な形になっています。

下の写真の左側の部分だけ斜めに窓の木枠が見えます。これによって光が取り入れやすいと構造になっていたそうです。左からの天然光は、「光の魔術師」と言われたフェルメールの絵画を連想させます。

またもう1点の建物は1909年に建築された旧小樽新聞社です。戦前は小樽新聞は北海タイムス、函館毎日新聞と並んで北海道の3大新聞と言われていたそうです。このことからも今の札幌一極集中と異なり、函館、小樽が北海道の中心であったことが伺われます。また威厳のある建物から、当時の小樽新聞の道内での影響力を感じることができます。

余談ですが、大通り公園に歌碑のある石川啄木も北海道に仕事を探しに1年弱滞在したことがあり、函館日日新聞と小樽日報に短い間、勤務した記録があるようです。

旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮

先日、旧永山武四郎邸及び旧三菱鉱業寮を見学に行ってきました。札幌駅から1キロ程度なので、徒歩でも行ける距離にあります。

 

この建物は時代の異なる建物が一緒になっているという特徴があります。パンフレットにも「明治・昭和、二つの時代を体感する空間」とあります。建物の半分は明治10年代前半に、後に北海道庁長官となる永山武四郎の個人宅として建築されたものです。


ボランティアガイドさんの説明によれば、個人の邸宅のために正式な建築時期はわからないが、洋室部分の意匠が中島公園内にある豊平館と類似していることから同じ建築家が関わっているのではとのことでした。洋室と畳の和室が混在する和洋折衷住宅となっています。

 

その当時は旧永山武四郎邸のある部分は工場などのある地帯であったため、土地が安かったことも大きな邸宅を建てられたことにつながったのではという説明がありました。現在でも札幌は西側の方が東側よりも家賃が高いと言われますし、旧永山武四郎邸の隣は札幌開拓使麦酒醸造所​の跡地を利用した札幌ファクトリーです。

 

有島武郎が永山武四郎に定山渓温泉で会ったとエピソードなども展示してあって興味深いものでした(共に薩摩出身)

建物の残りの半分は昭和12年に三菱鉱業株式会社によって建築されたもので、昭和前期のモダン建築です。

ナガヤマレストという喫茶店でコーヒーやお茶も楽しめたり、2階の図書コーナーでは札幌の歴史を知ることができます。

雪のとける速度

4月半ばになると札幌も暖かくなってきました。

20℃ぐらいになる日もあり、一気に春が来た感じです。

札幌の春は色々なものが同時に開花するらしく、4月の後半に梅の花と桜の花が同時に開花すると聞きました。

本州出身で札幌に住んだことある人間と話すと「春の息吹」を本州より感じると

言っていますが、それには冬が寒いことだけではなく、こういう理由もあるようです。

暖かくなっても雪が捨てられ山になっている場所では、まだ雪山があります。

6月ぐらいまで雪が解けない年もあるようです。

20℃の日に目の前に雪の山があり、触ると冷たいというのは関東では体験できず、とても新鮮です。

 

 

 

札幌移住3週間

私たち夫婦は先日札幌に引っ越してきました。

豪雪地帯の生活は初めてです。

札幌生活で気がついた雑多なことを書きとめておこうと思います。

 

早速ですが、札幌市で3週間暮らして、予想外のことを書いてみたいと思います。

・部屋の中は意外と暖かい

・建物の中は暑い(そしてアイスを食べている人が多い)

・風が強い(自転車をどう停めておくか問題が発生)

・意外と天気の良い日が多い

・晴れた日は積もった雪に太陽が反射して明るい

・地下鉄の通勤ラッシュがある

・ごみの分別が細かいが、有料のごみ袋にいれなくてもよい

ものも多い

セイコーマート、サツドラ、ツルハなど関東や関西では見ないお店が

たくさんある

 

これからも札幌生活について書いていこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。